(ものづくり、真善美、魂の宿り)オア(雇用の流動性、個人主義社会、成果主義)オア(創発、戦術的脆弱さ、多元主義)

 個人性や作家性を主題の要素あるいは製作の戦略に据えたエンターテイメント作品(たとえば『ブルーピリオド』や『大東京トイボックス』、ゲームならば『ファイナルファンタジー8』や『ファイナルファンタジータクティクス』あるいは『メタルギアソリッド』)を鑑賞すると、ものづくりとはかくも深いものか、という心地の良い衝撃を受けることがある。

 

「どの現場にも そこそこプログラムが組める奴はゴロゴロいる だがその先にいけるヤツってのは あと一行削ることをけしてあきらめないヤツだ コトバにすると陳腐だがな 魂ってのは案外 そういう小さいところに宿るもんなんだよ」

(大東京トイ・ボックス7巻より、ゲーム制作者の台詞)

 

 

 納期の厳しい仕事をしていると、自分の中に真善美の基準を持たなければ、とてもではないが魂など自分の成果物に宿せないと感じる。ソースコードにこのコメントを書かないでも誰も気づかないだろう。評価にも関係はないだろう。だがなぜAではなくBを選んだのかは、プログラムを書いた本人が、プログラムを書いたそのときに書くのが、費用対効果では最大だろう。そこに論理上の真があり、筋を通す美がある。2年後に見知らぬメンテナーが推測で補完しながら作業するのは想像に耐えない。それは自分の評価には何の影響もないだろう。ただそれは、自分が嫌う、食べ散らかした皿をまとめもせずに飲食店を去る見知らぬ他人の姿に重なるのだ。立つ鳥にすら劣るのかもしれない。

 

 一方で、大人数の中で運用される成果主義は、かならずしもその精神に沿わない。見えるところだけキレイになっていればいい。昇進評価に重要なところだけまとまっていればいい。制度を逆手にとれば、そのようなことも十分に可能だろう。悪用できない制度を作ることは難しい。ましてや個人主義社会においては、誰がどのような思惑でどう動いているのかは容易に測り難い。誰も自分の最適化を共有しないし、誰もそんなことを自発的には求めていないようにも見える。雇用の流動性が高い社会においては、傭兵のようなその性質は更にクリアに見えるだろう。そこに美と善、個人の本質的な義務からの自由、コミュニケーションが現実的に成功した例を見出す人もいるだろう。それはわるいことではないのだ。

 

 ここに、脆弱さを戦術的に用いるケースが絡まると、更に事態はややこしくなる。骨を折って強くするではないが、弱い部分はそうとして曝け出してしまったほうが、多様な構成員によって組成された性質不明の塊にとっては、より強い免疫を獲得する好機になることもある。創発のようなことも起こる。そのような環境下では、隅々まで個人の目が行き届いた美など望むべくもなく、また個人の美意識では受け付けない異物が、全体に欠かせない鍵となって働くこともある。成果主義のものさしにおいては、矮小な個人が拘って作り上げた小さな洗練されたものよりも、多様な構成員集団が崩壊寸前の「最大成果物」を出したほうが、比べる必要もないほど優れているとされる。

 

自分にとって美しいものは、子供のときから今に至るまで、いつでもどこでも、枯れきって考えつくされ、何千回もの繰り返しのなかで揺るぎない質の高さを持つに至ったものだった。 それは自分にとって根本をなす価値観で、だから、この折り合いをつけるのは難しい。唯一考えられる突破口は、戦術的脆弱さのメカニズムに任せ、その煮え切らない思いが解決されるのを自分の外に求めることだろう。それはツギハギの大きな成果を赦すということであり、トランスミッションでギアを変えるということである。自分の殻を破るということであり、uncomfortableでtransformativeな体験を志向するということである。

 

年をとるにつれて、それは可能なのだろうか?と思うことが多くなった。中学に入った瞬間に、性格がまるで変わった友人のことを思い出す。彼は内気な自己を変えたかったのだろう。今や当時の2倍以上の年になった。細胞はまだ変化を受け付けるだろうか。